タバコの輸出で利益がもたらされることがわかると、人々はきそってタバコを栽培するようになった。タバコ栽培の成功は、バージニア会社に植民地経営を見直す機会をもたらした。そして1619年、ジョージ・ヤードリーやエドウィン・サンズらによって、バージニア植民地の大規模な改革が実施された。
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土地の共同経営が廃止され、人頭権制による土地の私有を認められた。以前からの住民中、株主の権利を有する自由民には100エーカーの土地が与えられたが、新たに自分の費用で移住する者には、1人につき50エーカーの土地を所有する権利が与えられた。さらに、奉公人を連れてくる者には、奉公人1人につき50エーカーが与えられた。人頭権制により、資金のある者には、奉公人の数に応じて、広い土地が与えられた。会社は、付与した土地から小額ではあるが、免役地代を徴収して利益を得ることができた。人頭権制は、バージニア会社が廃止された後も存続し、大地主のプランテーションを形成する基盤となった。これらの改革により、植民地の基礎は確固としたものになった。
住民には、イギリス本国の国民と同等の自由が保障された。そして住民代表による会議を招集し、意見を表明する機会が与えられた。1619年にジェームズタウンで開催された第1回目の議会は、アメリカで最初に開かれた議会として知られている。
住民はプランテーションごとに分けられ、人口の分布に応じて4つの地区が設定された。チャールズシティ、エリザベスシティ、エンリコシティ、ジェームズシティの4つのシティはジェームズ川沿いに規模を拡大し、輸送のための水路が張りめぐらされた。
また経済を発展させるために入植者を多数送り込み、タバコ以外の産物を増やす試みも行われた。だが入植者は栽培が容易で確実に利益を上げられるタバコの生産に努力を集中した。他の産物を開発する狙いは成功しなかったが、植民地の人口は増大した。1618年4月にわずか400人であったバージニア植民地の人口は、同年末に1000人となった。入植者は多くが20歳前後の独身で、年季契約奉公人として渡来した。1618年から1622年までに入植してきた3570人は大半が年季契約奉公人で、初期の奉公人は圧倒的に男性が多く、男性6人対し女性1人の割合であった。年季契約奉公人は年季が終わると農具と衣料を与えられて自由になるはずであった。しかし初期のバージニア植民地の苛酷な条件のもとで彼らが疫病や飢餓に打ち勝つことはまれであった。1618年から1622年に渡来した入植者の4人に3人は、1年以上生き残ることができなかった。